リモートディレクションへの道〜インカム編〜
2022年09月02日 金曜日
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まずは、この映像をご覧ください。
このムービーは関西放送機器展(2022年7月)のIIJブースで撮影したものです。音を出しているのはRIEDEL Communications社のインターカム装置で、オタリテック様ブースにある対向装置から筆者が話しかけています。そしてIIJブースとオタリテック様ブースはIIJ社製サービスアダプタ「SA-W2L」によりVPN接続されており、互いのインターカムを異なる地点でつなぐデモを実施していました。
と、これだけではごく当たり前に聞こえる話ですが、このVPN接続はモバイル網経由で行われたところが今回の鍵です。
インターカムは放送制作現場で長らく、そして必ず使われている装置です。皆さんも、放送制作スタッフがヘッドセットを付けている姿を見たことがあると思います。あのインターカムでは、番組が流れている前、そしてその最中にも、かなり細かい指示や情報のやり取りがされています。制作スタッフの多くは被写体やモニタ映像、装置に注目が行っていますから、指示は音声でないとできないのですね。私も聞かせていただいたことがありますが、テレビにおけるものづくりの最前線を知って感心しました(スポーツ中継の放送延長の要否を終了30秒前に決めるとか…要は面白いです)。
なぜ今回、IIJはわざわざモバイル網を選択したデモをしたか。その背景には、放送制作分野におけるIP応用方法の変化があります。この記事ではその動向と、IIJが提案する「リモートディレクション」について説明します。
IPへの期待とリモートプロダクションの現実
放送制作機器、つまりカメラやスイッチャー、マルチビューアーなどのIP対応は、「リモートプロダクション」という新しい概念を引き連れて登場しました。2015〜2016年頃のことです。
- これまで映像伝送に使っていた長さ制限のある同軸ケーブルを光ケーブルに替えましょう
- 光ケーブルのアプリケーションレイヤはIPを採用しましょう
- →映像・音声はIPで遠距離伝送できるようになるよね
- →映像・音声が遠距離伝送できるなら、中継車で制作していた番組も、本局で作れるようにならない?
これがリモートプロダクションの肝です。これまでの「みんな現場に集まって1箇所で番組作り」から「必要な人員だけ現場に向かい、他のスタッフは局舎で仕事」へ。放送制作のあり方に大きな変化をもたらすもので、リモートプロダクションには期待が集まりました。放送制作機器のIP対応を制作の現場に薦めると、まずはリモートプロダクションを試してみたいという声も多く、2010年代後半には様々なトライアルが実施されました。
しかし、リモートプロダクションには大容量のIPネットワークが必要になります。HDカメラのデータレートは約1.5Gbpsです。それが10カメラも集まれば15Gbps。4Kや8Kとなればカメラ一台の帯域だけで十数Gbpsから数十Gbpsになります。IIJで経験したPoCでは、現地と放送局を結ぶ100Gbps回線があっという間に埋まってしまったこともありました。
残念ながら、キャリアが提供する大容量専用回線は費用面や機動力の面で放送局のユースケースになかなかフィットしません。ほとんどの専用線サービスは「最低利用期間が一年」という縛りがあり、月額費用の支払いが最低12ヶ月にわたり必要になります。開通に至るまでも見積もりから回線調査、現地調査等々、キャリア対応に通じた人員も必要です。回線を長期間利用する通信事業者ならともかく、週末のイベント中継で番組予算からサクッと支出をしたい放送事業者にとってこの負担は重たく、また予算確保や執行が難しかったのです。
実際国内においてリモートプロダクションの利用は未だに限定的です。採用に至った放送局の多くは、すでに専用回線やファイバを保有しており、それを継続利用していることが多いようです。
いや、しかし予算面を理由にしてIPネットワークの利用を全面的に諦めるのは勿体無い。もっとカジュアルにIPネットワークを使ってもらいたい。契約、予算面から弾力的な回線を用いるところから、放送制作の変革を一歩からでも始められないだろうか。こういう思いが、IIJの中に溜まっていくようになりました。
もっとIPをカジュアルに!〜リモートディレクション
このような要望に応えるのが「リモートディレクション」です。
すべての制作をIPネットワークに依存するのではなく一部だけ「うまく使って」、全員ではなく「ディレクションだけリモートで対応できるようにする」方法です。
ここで、IIJが提案するリモートディレクションについて、典型的なシナリオを図で説明します。
カメラやマイク、それを操作するスタッフは現場にいることが前提となります。また放送制作装置(スイッチャーやミキサー、マルチビューワーなど)も現場に設置されます。映像制作の本線信号は現場で終端しているのがポイントです。できあがった本線信号はIPに依らず、あくまでこれまでと同じ手法(マイクロ波、臨時回線サービス、ダークファイバ等)で局舎へ伝送されます。
一方、制作の全体指示を出すディレクターは本局にいて、現場とネットワークで結ばれます。この時ディレクターに最低限必要となるのは次の信号です。
- 現場のカメラ全台の映像がミックスされたマルチビューアー(映像)
- 現場のスタッフに指示を出すためのインターカム(音声)
マルチビューアーは複数の映像信号を一つの映像としてまとめる装置です。現状ではマルチビューアー装置の映像出力を映像伝送装置の映像入力に接続し、IPで伝送する手法が一般的です。放送局側では映像伝送装置から映像を取り出し、ビデオモニタに映します。このモニタで全てのカメラ映像を見つつ、次に切り替える映像をインターカムで指示出しすることになります。よって、この映像伝送装置はできるだけ少ない遅延時間でIP伝送することが求められます。近年の映像伝送装置は「超低遅延 (Ultra Low Latency)」という技術も発達しており、10ms程度までに遅延を抑えることができています。この場合はあくまでディレクターが見るためだけの映像ということもあり、高品質よりは低遅延が重視されると言われます。
もちろんこのタイムラグによって制作の品質が低下しないかという懸念はあります。我々が放送関係者に「どのくらいまで遅延は許されるのか?」と尋ねると大抵の場合「短ければ短いほどいい」と言われます。禅問答のようですが、つまりどのレベルを超えると使えないか、未だ一般的なコンセンサスが確立されていないと言うこともできます。
最近ではリモートプロダクションを経験した制作スタッフも増えてきており、「この程度の遅延であればスタッフからのクレームは出なかった」というエンジニアの声も聞こえるようになってきました。リモートディレクションの経験値は、いま業界全体で蓄積されつつあるところだと思います。
リモートディレクションとそれを支えるIIJの技術
カジュアルにリモートディレクションが使えるのかどうか、まずはモバイル網だけでインターカム(以下、インカム)がリモート利用できるか試してみることにしました。
インカムは現場で複数のチャンネルが用意されることもありますが、指示出しするために必要になるのは1チャンネルのみです。PCM 24bit音声を1msのサンプリングで送出した場合1チャンネルにつき1.8Mbpsが必要になります。これだけならフレッツでの伝送は余裕があります。さらに状況が許せば、モバイル網利用のチャンスがあるかもしれません。
インカムにはRIEDEL Communications社のRSP-1232HLおよびRSP-1216HLを使用。通常、同一のLAN内で使うことが想定されている装置です。そしてこの装置の間にIIJ製のルータであるSA-W2Lを挿入し、モバイル網経由でL2VPNを構成します。SA-W2Lは内蔵する3G/LTE通信モジュール経由でのモバイル通信(モバイルアクセスオプションの契約が必要)にも対応しています。3G/LTE用通信モジュール用の2本のアンテナが特徴的な外観となっています。
SA-W2LをはじめとするIIJ製のSEILルータは「サービスアダプタ」と呼ばれます。このコンセプトを、https://www.smf.jp/overview/concept.html より引用して説明します。
SMF対応機器「サービスアダプタ」は、初期設定も何もせず、イーサネットケーブルをつないで電源を入れると、その環境で利用可能な接続環境を検出して自動的にサーバへ接続。サーバで管理されている設定を取得して動作します。さらにSMFでは、監視通知パケットを元にしたサービスアダプタの稼働状況の通知も可能。ネットワークサービスに必要なあらゆる機能を備えています。
サービスアダプタは電源を入れると必ずサーバにつながるため、機器の設定や監視、管理をすべてサーバ側から出来るようになります。利用者は煩雑な設定作業から解放され、安全で高度なネットワークサービスを簡単に利用することができます。
この機能については、放送局でIIJのサービスを紹介する際に常に関心を持っていただいています。放送局のエンジニアに取ってもIP技術の習得は必須となっており、中には日常的にルータやスイッチの設定をこなしている方もおられます。しかし放送局の本来業務の観点からすると、知識の把握は重要とはいえ「必ず通らなければならない道」ではないと思っています。またIP技術については属人的なノウハウになっているのが現状でしょう。ルータの設定など「面倒くさい」部分はIIJのサービスを利用することで、より本質的な業務に集中できないだろうかというのが私たちの提案です。
リモートインカム、試してみました
話を元に戻します。このSA-W2L+モバイル網を用いた接続はRTTがおよそ100ms程度となりました。同一LANでの利用が想定されているインカムにとっては厳しいレイテンシです。そこで、インカムには100msの受信バッファを設定していただきました。もちろん会話時には遅れが発生してしまいますが、一般的に自然な会話が厳しくなるのは片道遅延が200msを超える段階と言われています。今回の場合片道50msですので、ネットワークの視点ではまだ余裕はあります。
RIEDEL社のインカムはAES67という音声伝送規格を採用しています。本来AES67はPTPによって機材に対するクロックが供給される必要がありますが、今回はPTPの有無に係わらず音声信号が入出力できるモードを利用しました。これにより、PTP同期のないネットワークでもインカムが使用できるようになります。
モバイル網の利用にはもちろん制約が付きます。特にイベント会場のような「特定の日に多くの人が狭い範囲に集中する」場合、安定稼働には不安要素が残ります。しかし技術的な興味が勝るところもあり、まずはテクニカルデモとして関西放送機器展で展示しました。オタリテック株式会社とIIJ、それぞれの展示スペースに「インカム装置+SA-W2L」を配置し、モバイル網経由で結んだデモを実施したのです。
この時IIJブースで撮影したものが冒頭のムービーです。大変クリアにインカムの音声が届いていることがわかります。関西放送機器展でのデモは好評をいただき、インカムのIP化によるリモート延伸、さらにリモートディレクションの可能性について、大いに共感をいただくことができました。こうしたデモを実地で見ると、放送局の方にもさまざまなイマジネーションを持っていただけるようで、様々な議論をさせていただきました。
この好調さを保ったまま翌週の九州放送機器展でもデモを続けたいところでしたが…残念ながらこちらではモバイル網の状態が良くなかったのか、いわゆる子機側のレジストレーションが成功しない事象が発生しました。RTTはやはり100ms程度と関西放送機器展時とさほど変わらず、また電界強度も十分に取れていたことを確認しています。初見で明らかに不具合がある部分を発見することができず、原因はより深いところに潜んでいそうです。念のために付記すると、このVPN上でWebブラウザを用いた機器操作等は問題なく行うことができました。
リモートインカムの実際とリモートディレクションの展開に向けて
今回のデモから、現場への展開で「繋がることもあるし、繋がらないこともある」ということが判明したともいえます。この反省を踏まえると、モバイル網だけでリモートインカム、さらにリモートディレクションを成立させるのは厳しい可能性があり、より安定度の高いフレッツ回線を用いる必要があるかもしれません。つまり
「リモートディレクションのいち形態として、リモートインカムはフレッツ回線をメインとして構成できる。ただし、フレッツ回線が開通するまでの間はモバイル網でVPNを構成し、インカム装置のレジストレーションが成功するのであれば、それも併せて使う」
という機動的な使い方ができると見ています。また今回RTTが100msの区間であってもインカムによる音声伝送が成立することが確認できたのは大きな収穫です。これだけの遅延をカバーできるのであれば、有線接続を用いた場合であれば日本国内は問題なくカバーできるはずです。
これまでインカムはケーブルの届く現場でのみ運用されることが多かったのですが、モバイル網やフレッツなどでカジュアルに延伸できるのであれば、IP化のメリットは大いにあるといえるでしょう。どうしても遠隔地に伸ばしたい場合はキャリアのアナログ専用線サービスを使っていたと聞きますが、これもすでに過去のサービスとなりつつあり、その代替手法にもなり得ます。
このようにリモートインカムだけでも、導入での費用対効果は高いものが望めるのではないかと考えています。
今後、リモートインカムに適用できる回線についての確認を進めると同時に、リモートディレクションによるメリットの創出について、検討を進めていきます。
その進捗については、また本ブログでも公開したいと考えています。