コミュニティとプロトコール:インターネットと放送の狭間で
2021年04月13日 火曜日
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インターネットと放送の異文化交流
インターネットの仕事をしていると、他業種のお客様と技術の話をすることがよくあります。私は動画配信が担当ということもあり、やはり一番多くお話するのは放送局あるいは映像・音声関連の方になります。私がIIJメディアコミュニケーションズにて動画配信を手がけ始めたのは1995年です。その頃生まれたばかりの動画配信技術は、画質、音質、配信規模など今から振り返ると「あるのは将来のポテンシャルだけ」というレベルのものでした。しかしそのような技術であっても可能性を感じてくださったお客様がいたからこそ、現在のような「配信はあって当たり前の基本的なサービス」という状況が作れたのだと感謝しています。
その当時に動画配信技術に着目し使ってみようとする放送局の方はある意味チャレンジャーでした。放送局の技術とリソースをもってすれば、同時に何百万、何千万もの視聴者に安定して高品質動画を届けるなど当たり前だからです。こうしたことが前提になる会社で働いているからこそ、逆説的にインターネットの可能性を信じてくれたのでしょう。そう考える方はおそらく局内でも少数派だったろうと思うのですが、皆さん総じてインターネット技術の知識獲得には意欲的でした。異文化交流のような雰囲気が、その場にはありました。
そして今ふたたび放送業界でインターネット技術への注目が集まるようになっています。カメラやスイッチャーなど、放送制作のど真ん中で使われる機材がIPに対応し、IPが伝送ケーブルに取って替わる大きな流れがあるからです。これまで映像信号の伝送には同軸ケーブルが用いられてきました。これが4K/8K等の大容量に対応するため光ファイバケーブルに変わり、さらにその上位層にEthernetおよびIPが使われるようになりました。このための規格がSMPTE(米国映画テレビ技術者協会)によって定められ、SMPTE ST 2110 Professional Media Over Managed IP Networksとして発刊されています。
まさにこの規格書のタイトルにあるように、放送制作の現場(スタジオや調整室、回線センター、マスタールームなど)に”Managed IP Networks”が導入されるわけです。この規格を元に機材を導入すれば、まさに放送局の心臓部とも言える部分にIP技術が導入されることになります。この規格が発刊され、市場に対応機器がデビューしたのは2017年でしたが、それ以降放送局の方から「どのようにIP技術を獲得したら良いか?」という問いを多くいただくことになりました。これまで全くIP技術とは縁のなかった方々から、です。IP機器ベンダーのある方は、このIPへの関心の高まりを「電話会社がPSTNからVoIPへ移行した前夜と似た雰囲気を感じる」と評しておられました。
私も似た経験を持っています。デジタルテレビのIP動画配信対応です。それまで電波を受信するだけだったテレビがIPにも対応し、インターネットから動画を受信するという革新的なできごとでした。2006年に着手されたこのプロジェクトでは、動画配信CDNの立ち上げをIIJが担いました。それだけではなく、IIJはよりよい配信のための仕組みを提案できる立ち位置にもいました。ですが当時はテレビという組み込み機器特有の制約の多さに理解が及ばず、双方の発展に寄与できる効果的な提案はできずじまい。「次の機会があったら、今度はもっとうまくやろう」そんな思いが残ったプロジェクトでした。
インターネットのエンジニアカルチャー
前述のようにIPは他のさまざまなメディアの移行を受け入れてきました。その移行を成功させるには、異なる業界の文化を汽水域のように混じり合わせ、新しい価値を生み出す姿勢が重要です。互いの文化をリスペクトするのは当然ですが、私は放送局のエンジニアがIPを受け入れることで生み出される新しい世界観を作るお手伝いをしたいと考えました。「これまでできていたのと同じことがIPでもできる」という要求は当然ですが、そこをゴールにするのはもったいない。単なるコストカットの手法として見るのではなく、「今までできなかったことをIPで実現する」ことを目的としないと、といつも考えています。(本音:「何かの替わり」なんて、つまらないじゃないですか?:-p)
インターネットの世界では何か新しいチャレンジがあると、そこにエンジニアの輪ができます。そしてその輪は一つの会社にとどまらず、同じ志を持つコミュニティによって形成されます。これはインターネットコミュニティ、あるいはそれ以前のUnixコミュニティが文化として持ち続けてきたよりよい活動の形です。個人的にはBoF(Birds of a Feather)のスタイルが気に入っています。私にとってBoFはフラットで、組織を超えて、個人として活動できる場でした。エンジニアにとって組織を離れて技術をフラットに語る場があることはとても重要です。
脱線しますが、IIJでは今も相手のことをアカウント名で呼ぶ文化が(一部で?)残っています。これもUnix由来の慣習ではないかと思います。創設時のIIJは名うてのUnixハッカーが多く集う会社で、私も入社時には随分とビビったものです。そんな人たちに「bunji」と呼びかけられるのはこそばゆかったものですが、同時に単なる若造を一人前として扱ってくれている気がして悪くなかったですね。私はハッカーでもなんでもなく、インターネットとBITNETに接続された端末室で大学生活の大半を送ったいち文学部生でしかありませんでしたから。
閑話休題。このような「組織を越えるフラットな文化」がインターネットのさまざまな技術や文化を発展させてきたことは疑う余地はありません。日本においてもInternet WeekやJANOGのような活動を見れば明らかと思います。こうしたエンジニアが育む文化を「プロトコール」として放送局のIP化の場にも敷衍したいと考え、いくつかの活動を続けています。
VidMeetへのモチベーション
インターネットの世界では、時にライバル会社へ活動の場を移すような転職は珍しくありません。IIJを巣立っていく方も、やはり通信・クラウド業界に身を置いて活動を続けることが多いようです。ところが、このような業界内転職は放送の技術分野では珍しいようです。実際私も「以前はNHKにいたけど今は民放です」なんて方にお会いしたことがありません。(逆に、放送機器ベンダーの方の流動性はかなり高いですね。IT業界より多いかも?と感じるくらいです。)人材流動性がないと交流の機会も生まれないのではと思い聞いてみると、規格化団体や連盟といった場などでの共同作業はあるものの、誰でも参加できる勉強会のような催しはあまり開催されていなかったとのこと。
これは、もったいないでしょう。
と思って始めたのが「VidMeet」というイベントです※1。Video over IP技術にまつわる話題を私がピックアップし、講演の形でゲストスピーカをお招きしています。いわゆる勉強会のスタイルで、初回を2017年10月に開催して以降9回実施しています。最大の参加者は映像機器メーカやSIerの方々ですが、エンドユーザである放送局からの参加も最近では目立つようになりました。
意図したのはエンジニアがフラットに技術を語れる場を作りたいということです。放送業界はIT業界のように必ずしもフラットさを好むわけではないことを感じていたので、ちょっとでも新しい風を吹き込みたいという思いがありました。そのうち放送エンジニア同士が勝手にIPを語り出したら、というのが理想です。
PoCを通じての成長
放送機材のIP化に伴い実証実験、いわゆるPoCが数多く行われるようになりました。インターネットの世界でのPoCといえば、InteropのShowNetが代表例になるでしょう。ShowNetの構築とデモンストレーションは今や日本のInteropでしか見られないそうですが、多くのエンジニアが二週間近く缶詰になりながら最高のネットワークを作り上げる姿は、実際目の当たりにすると圧倒されます。(私も何度か動画配信関係で参加したことがありますが、もう若くないからできませんね。笑)そこには長年の経験と蓄積によるプロトコールが整備されており、それを土台とできるからこそ新しい挑戦をする余地があるのだと思います。
IP対応の放送機器のPoCでは、私たちにもノウハウがあります。IIJバックボーンを用いた放送機器の実証実験です。多くの方は「手元に設置した1, 2台のL2SWを介し、ローカルな環境でしかIP放送機器を試したことがない」のです。実際の回線に触ったことがある方はほとんどいらっしゃいません。開発やプレセールス、検証のためだけに10GbEや100GbEの専用回線を購入する余裕など、どこにもないからです。ところで、IIJはネットワークを作りお客様へ提供する立場です。バックボーンは売るほどあるわけです。IIJオフィスのある飯田橋には実験用の回線が引き込んであり、IIJの地方NOCを経由して手元に戻ってくるハーフループのサーキットが準備されています。
この環境では、飯田橋の実験室に光ファイバが2本(2対)設置されています。片側にIP放送機器の送信側、もう片方に受信側を接続します。物理的にこの光ファイバコネクタは一箇所にまとまっていますが、この間は実は飯田橋から(例えば)名古屋へ行ってまた折り返してくる、とても距離の長いレイヤー2ネットワークになっているのです。この環境であれば送信機・受信機を一つの場所にまとめることができるため、非常に簡単にWANを用いた伝送試験が可能になります。
この環境を用いたPoCももう10回以上実施したでしょうか。メーカのエンジニアとIIJのエンジニアが集って実験をするわけですが、特筆すべきは、ここでの議論を通じてお互いが学びの機会を得るということです。実環境を使った実験の強みはここにあります。正直に言えば、大抵の場合、一発で上手くは動きません。何がしかの設定なりインプリが上手くいっていないことが多いのですが、それをお互いに確認しつつ修正を図ります。この時にお互いの知識を共有することが非常に重要になります。なぜそうした設定をするのか、その背景も相手に理解してもらえるよう説明しなければならないからです。これが私たちにとって貴重な学びにつながっていますし、おそらくそれはメーカの方にとっても同様だと思います。
さらに「次にうまくやるには、どうしたらよいだろう?」という発想が生まれ、それが一種のプロトコールとして育っていきます。それはIIJでの実験に限った話ではなく、他のPoCでも回数を重ねるごとに互いの知識が増え、引き出しが増えていく傾向があります。どうやったら機器同士が繋がるのかというベーシックな段階は早々にクリアし、よりよい成果を出すためにはどのような実験に厚みを持たせるべきか、といった本質的な議論が交わされるようになるまで、そう時間はかからなかったように思います。
VidMeet Onlineでの実践
VidMeetはこの1年コロナ禍のため開催ができていません。その代わり、VidMeet Onlineというイベントを2020年に開催しました。これは放送機器メーカやネットワーク機器メーカの有志が集っておこなわれたもので、「インターネット・データセンター・クラウド x 放送機器が生む新たな運用スタイル」をテーマに、デモンストレーションサイトをオンライン開催したものです。このイベントを始めるにあたり現地にある放送機材を、クラウドからリモート制御できるというコンセプトを打ち出しました。「密」であることで成り立っている放送制作現場のコロナ対策を、ネットワークを用いて支援できないかと考えたからです。
その詳細はIIRを参照いただくとして※2、ここではプロジェクトの運営について触れたいと思います。オンラインイベントではありますが、物理的に放送機材をデータセンターに持ち込み、デモシステムを構築するというミッションが生じました。これまでのPoCだと「機材を持ち込む。電源を入れ接続を確認する。絵が出るまで帰らない」というスタイルが、わりと一般的でした。しかしデータセンターは機材を設置し無人環境で動かす場所です。ラックの前に机を広げ、みんなで延々と作業を続ける場所ではありません。
※2:IIR (Internet Infrastructure Review) Vol.50 フォーカス・リサーチ(2)
「2020年を超えて-オリンピック・放送制作・インターネット-」
ではどのようにすべきか。「データセンターに機材を設置したら、その場でWeb U/Iなどの遠隔操作用インタフェースに接続できることを確認。詳細設定や接続実験は後日リモートからVPN接続し、遠隔制御して実施」というのが、プロジェクトとしての方針になりました。これは、データセンターに通信機器を設置する時と同じプロシージャーです。サーバやルータ、スイッチなどの世界では、設置と設定、さらに運用はすべて別のプロセスになっていて、それぞれが独立して計画を立てられていると思うのです。それと同じことを、放送機器にも適用してみたというわけです。実際この方法は特に問題なく受け入れられ、デモンストレーションサイトの構築もスムースに進みました。実験のためにスタッフが全員データセンターに毎日集合するというのはそもそも無理がありますが、そうした無駄をネットワークの利用によって省くことができました。
また、プロジェクトでは週一の全体会議をZoomで実施し、日常的な連絡や意見交換はSlackを用いました。ファイルのやりとりなどはWikiの一インプリであるGROWIを採用しました。これによりプロジェクト進行は完全リモートで実施。キックオフや反省会も含め、すべてをオンライン上で完結できました。これはネットワーク業界の方にとってはごく自然なことだと思いますが、「密」なコミュニケーションによって成り立っていた放送業界に対して新たな風を少しばかりもたらしたのではないかと考えています。これも一種のプロトコール共有と言えるでしょう。
終わりに
異なる背景を持つ通信と放送の文化は、いま、重なり始めています。OTT配信の本格化でCDN事業者は放送のロジックを学習しましたし、放送機器のIP化では放送エンジニアがIPの知識を身につけ始めています。重要なのは、相手のロジックを立体的に理解しつつ、技術を用いてより前進へと導く姿勢ではないだろうかと考えています。放送局のシステム更新のタイミングはIT技術の進化する速度からすると遥かに遅いため、システム運用中の拡張性や保守性を考慮したベストプラクティスはその時々によって異なってきます。未来を見通す目が必要になるのです。放送技術の進化とIP技術の進化、どちらにも目が利く複眼的な視野が求められています。
私も放送・映像・音声業界とのお付き合いがずいぶん長くなりました。しかし、新たに知ることは今もって多く、業界の歴史と厚みを感じます。Video over IP技術がこの世界に貢献を始めてからまだ年月は浅いのですが、文化と技術が混じり合う汽水域で仕事をすることは楽しいです。そして最終的には、IPネットワークが便利だ・面白い、と感じてもらうことがゴールだろうと思っています。
この4月にはこの汽水域のコミュニケーションを活発化すべく、メーリングリストを立ち上げました※3。公開メーリングリストですのでどなたでも参加可能ですし、口コミで多いに広めていただけると嬉しいです。質問から技術論、あるいはイベント案内等、自由な「場」として使ってもらえればと考えています。皆さまの積極的な購読・参加・宣伝を期待しています。
※3:https://vidmeet.tv/mailman/listinfo/vidmeet
関連リンク
技術レポート「Internet Infrastructure Review(IIR)」では、筆者の山本がより配信技術に深堀りした記事「2020年を超えて−オリンピック・放送制作・インターネット−」を掲載しています。